蕭 文虎さんの証言

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簫 文虎(Seow Boon Hor)さんの証言               
(C・C・Yongさんの通訳から)


(簫さん)当時は1942年の3月16日、その日は7歳でした。
 そのときは幸せな家庭を持っていました。父親、母親をはじめ、母親はもうそろそろお産になっていましす。そして、私と、すぐ下の弟、妹でした。そのときは5人でした。
 たまたま戦争前に全体の団体写真を撮ったんです。親戚に送ったのが、幸いに残ってありましたので、コピーして送ってもらったものです。5人そろったこの写真を撮ることは二度とありません。
 当時、もともとはクランという港街に住んでいたんですよ。ここクアラルンプールより西のもっと遠いクランという町で暮らしていたんです。日本の統治時代に、日本軍はいつも女性をヤルということは知られてますので、引っ越しました。母親はなかなか美人ですから危ないと思って。田舎の交通不便なところへは日本軍はなかなか来ないだろうと思って。従って、全家族、クランという港からネグリセミレ州のクアラピアンのパルティンギンの奥のカンウエイという村に行きました。カンウエイ、本当に奥の奥の所でした。そこでは、まず、田舎だから安全と思って、交通不便で日本軍来ないと思っていました。田舎では、食料も作れますから、キャッサバとかトウモロコシとか、それで、行くことが決まったんです。
 父親は当時は、クアラピアンにある、当時は百家という組織で事務の仕事をしていたんです。あまりきれいではなかったんですけど、幸せに家族一緒にいるのは、うれしかったんです。
 

ところが、2日ほど前に日本軍が、戸籍をチェックしに来ることがわかりました。
 日本軍が指示して、住民みんなの出席を確認するというのです。我々は、食料も足りず、生活苦しい。みんな1人ずつ、食料配るというので麻袋持って集まりました。もし、一人でも足りなければ食料渡されません。戸籍で5人の場合は5人いないと5人分食料くれないです。4人ではだめです。みんな素直に喜んで麻袋用意して、カンウェイ、パルティンギンの村の広場に集まっていったんです。
 我々は、朝から広場に集まっていました。ずっと待ってて夕方4時頃だったと思います。やっと日本軍が2台の車で乗ってきたんです。
 そして日本軍は、我々をもっと奥のジャングル、ゴム園とか油ヤシの、もっと奥の方へ連れていったんです。
 そこで、奥についてからまた五、六十人ほどのグループに分けました。 
 そのときは、我々五、六十人の大勢の人いたけれども、日本側はたった4人の日本兵でした。そのときは、丘のふもとに立っていたんですね、後ろは丘でした。
 ある青年がなんか変な様子に気がついたんです。そこで、逃げること始まったんです。その様子見て、日本兵がすぐに腰の方につけてある銃剣を出して、銃の先につけ、青年の後についていって刺し殺したんです。一瞬間のうちに青年を銃剣で刺し殺したんです。瞬間に4人の兵は五、六十人の人々を刺し殺したんですよ。はっきり覚えているのは、父親は最初にやられたんです。私、見てはっきり覚えています。
 そのときは父親がすぐ下の弟の手を引いていましたが、その場で即死でした。身体の血が一杯出ました。
 母親は私を守るために、私を抱いて、地面に倒れました。日本兵の銃剣が母親の身体通して私の方にきました。もう、すごく混乱していました。みんな泣き声出したり、「許して」とか「助けて」とか、いろんな叫び声を出したんですけれども、私たち家族はみんなその場ですごくひどくやられたんです。その場面は今でも、なかなか、頭から消えていません。私の目の前の人はすべて銃剣で刺し殺されたんですよ。これは、言葉いくら使っても当時の恐ろしさは言い表せないと思います。
 あの、さすがに日本軍ですから、一回やってから、もう一度来て、本当に死んだのかどうか確認しに来ました。当時は我々抗日運動してなかったですよ。武器も持ってなかったのにどうして殺すか理解できません。
 もちろん今考えてみると、当時私たちは愚かでした。4人の日本兵でしょ。銃剣使ってたんですけど。こちらは、五、六十人ほどです。大人、子ども入れて五、六十人、もし、抵抗すれば何とかチャンスあったかも知れません。しかし、当時はすごく素直にお願いして、「許して」とか、いろいろ。要するに積極的に抵抗してなかったんですよ。耐えて、やさしくお願いして頼んだんですね。相手は頼むことはぜんぜん聞きませんでした。
日本兵は三光政策取ってたんです。三光の意味は、全部奪ってしまって、それから殺してしまったり、持っていかなかった物全部焼いてしまったり、いわゆる三光政策だったのです。
 その日、幸せな家族が一晩で崩してしまったんですよ。50何年経ってしまっているけど、当時の恨みは今でもまだまだ残っています。
 ところで、日本政府は今日までに、ちゃんと誠意を持って謝っていません。今までみなさん回ったことで、わかると思いますけれども、こちらの言っていることはすべて、事実ですよ、嘘ではありません。
 私は、母親のおかげで直接銃剣が入ってなかったんですね。母親の身体通して、きたのですから。深くは入っていません。それでも私の身体七カ所ほど銃剣の傷がありました。もし母親がいなければ私もとっくに死んでいたと思います。
 これはすべて、事実です。
 それから、わずか七歳で、さらに身体に七カ所ほど銃剣の傷があって、どうやって、過ごしてきたのか、私にも、正直言うとよくわからない。これはやっぱり母親のおかげです。生きてるうちに、母親が自分の命を捨てて私を守ったり、亡くなってもその魂が私を守ってくれたのです。当時七歳、ケガも一杯受けてどうやって過ごしてきたのか、やっぱり母親です。夢の中でいつも母親と出会いまして、私を支えてくれたんです。そのときは、本当に紙一重の違いで、命拾ってきたんです。七歳以降にもう母親に愛されることもなかったり、教育受ける機会もなかったりで大変でした。今でも毎度母親のことを思いだすと胸がまだまだ一杯になります。
 幸いに、インドネシアから来た華僑の養父に出合いまして、私を養子にしてインドネシアの方に連れていったんです。ところがインドネシアに行ってもただで食べさせることはなかったんです。いろんな仕事させたんです。そこで、あまりにもひどいことがあったので、母親も養父、養母の夢に入ったんですよ。彼らにお願いして、私を愛せよ、子どもを無理にしないでほしいと。もちろん少しは迷信のように聞こえるけれども、そのとき確かに、あまりにひどいことにぶつかっているときには、母親が相手の夢に入って警告してくれました。そうすると私にやさしくしてくれたんです。そういうおかげでずっと仕事できたんです。
 最近、十年くらいは、仕事とかビジネスとか少し順調になってきましたが、その前は難しくなったときはよく母親にお願いして指導してもらったりしました。いつも母親に、父親に線香出しまして。
 インドネシアの華僑の養父は、一応私が18歳までは一緒に暮らしたんですけど、当時は、養父の方も2人の息子持っているから多分このくらいで一緒には暮らせないと思いました。そこで内緒で養父から逃げてきたんですよ。なぜかというと、母親父親に約束していました。いつかの日に、必ず戻ってちゃんとしたお墓造ってあげます、と。帰ってきてから一生懸命働いて、お金貯まってからですね。そこで、場所再確認して掘り出す作業始めました。あまりにも道具つかうと骸骨が傷むんですから、見つかったら、道具使わないで、両手で気をつけて掘り出したんですよ。そのときは爪とかすごく傷んだんですよ。血が出るとか、傷んでますけど痛むことは感じませんでした。骸骨掘り出したときに、どれが母親か、父親か、兄弟か、わからなかったですが、全部、大事に扱いました、そのときは涙も止めれないほど出てきました、やっと約束したことを今回果せました。それはうれしい涙でもあるし、悲しい涙も混じっていました。
 当時は、日本軍によって、私の家族殺されたんですけれども、今日はみなさん、同じ日本人ですが、違う世代ですから、直接、みなさんの責任はないと思います。一つお願いがあります。それは、必ずこの事実を日本に持ってかえって整理してから、1人でも多くの人にわかるように伝えてほしいことです。世論になってマスコミを通して事実を拡げていけば、日本政府も考えざるを得ません。日本政府はどうやってこのことに反応するか、今まではすごくあいまいな態度してたんです。もちろん日本の首相、何人か謝ったことはあるけれど、ところがあまりにも誠意を持たないで謝ったんですから、それは十分謝ってないと思います。

 今日はみなさん来ていただいてすごく嬉しいです。過去の事実を、もっと多くの日本人にわかってもらうこと、それが私の願いです。広島も原爆投下されたことあるし、その、原爆によって亡くなった人たちとか被害を受けた人たちとか、同じく戦争被害者と思いますので。
 先日、日本に招待されて回って証言したときに、私から要求して、一度広島まで行ってきました。そこで、少なくとも花を捧げることが可能になりました。
 私日本に行く前に、広島ではみんな戦争に反対して、よくデモしているのを知っていましたが、私行って帰ってきてからは、あまり戦争反対のデモなかったらしいんです。
 行ったとき、テレビに取材されたんですよ、どうしてあなたこちらまで来ているか、家族が日本軍によって、殺されたにもかかわらず、こちらに来て花を捧げた、何の理由かと。それで私こういうふうに応えたんですよ。「広島に来て戦争博物館に行って記念碑に行きました。写真とか見ました。たくさん死んだ人は、子どもたちだったり、女性だったり、これは要するに一般的な日本人だったんですよ。彼ら、彼女らは、別に日本軍ではなかった。彼らは、私たちと同じように被害者となっています。そのために、被害者は平等とはいえませんけれども、被害者と被害者の間に、親しみ関係あると思いますので、そのために花を捧げに来ました。おかしいことではありません。」
 ところが、こういう人たちどうして死んだのか、当時の軍国主義しみこんでいた日本人こそ、加害者です。彼こそ、彼女こそ、責任を持って謝るべきです。
 そのため、説明しました。「加害者は、当時力を持っていた軍国主義であり、それを信じ込んでいた彼らは、加害者となってしまったのだ。」と。
 私もいつかまた日本の広島をもう一度訪問したり、それから今まで行ってなかった長崎も行ってみたいと思います。地元の人たちと手を結びながら、平和に暮らすことはみんなが努力する目的だと思います。一人では力は足りないから、必ずみんなの力を借りて頑張っていきたいと思います。そこで、戦争終わった頃に、遺族たち、父親が戦場で殺されたとか、そういった彼らは、一人残って大変な生活をしてきたことは予想できます。私も当時同じように生活してきた、それは違わないと思いますので。彼らも戦争の被害者となっていますので。必ず教訓として勉強し、それから二度と戦争にならないように努力しないと、昔死んでしまった人は無駄に死んでしまったことになります。それはこれから我々の共通な共同な使命と思います。同じくよろしく思います。