![]() 「昔のことを思い出し、話すたび胸がいっぱいになります。食欲がなくなり、眠れない日が続きます。子どもからは、『もう、やめなさい』と言われます。でも、わたしは言いたいこと(しかし、それはプラスもないマイナスもない、経験した事実だけ)を言います。」そう言って、「林茂縣日治蒙難華族同胞紀念碑」で、鄭来さんは、当時の話を始められました。 当時(1942年)、平野にあり栄えていたセレンバンよりも、もう少し山の中のいなかの方が安心だろうと、私の家族は鄭生郎のゴム園へ移ってきました。 そうしたある日、りう・くんの案内により日本兵が3人やってきました。「戸籍を確認するだけだ。」という彼らのことばを信じ、女性と子どもが広場に集められました。そのときは何事もなく、宿舎に戻ることになったのですが、その途中で、もう一度宿舎近くの広場に集められました。一人の軍人が演説を始め、それは30分ほど続きました。言葉もわからず、もちろん話の内容もわかりませんでした。 その演説が終わると、私たちは10人ずつに分けられ、1列にならばされました。母と、わたしと、兄弟たちがならび、母の胸には生後5ヶ月の弟が抱かれていました。と、突然、後ろにいた日本兵がその弟を奪い取り、空に放り投げました。落ちてくる弟を、前にいたもう一人の日本兵が銃剣でさしました。地面に落ち、血だらけとなり泣きわめく弟を、ただ呆然と見つめていると、日本兵は、次に、私を後ろからさしました。その後、脇を2カ所と、手をさしました。すべてで4カ所さされたのですが、2カ所目あたりを刺されたときに、わたしは気が遠くなり痛みを感じなくなっていました。 それから、どれだけ時間がたったのか。わたしは、意識を取り戻しました。日本兵が、死体を隠すためゴムの葉を、私たちの体にかけていたときでした。わたしは「今、声を出してはいけない」と本能的に考えました。あちこちから、いろんな泣き声が聞こえました。「許して」「助けて」「どうして、私たちを殺すのか」と。 またそれから、しばらく時間がたちました。しかし、5ヶ月の弟は、まだ生きて泣き続けていました。弟の腹からは、腸がはみだしていました。5歳の弟も生きていました。弟たちを連れて逃げようと、そばにいた母に声をかけましたが、母からは返事はかえってきませんでした。 誰かが逃げる影が目に映り「あぶないのだ。少しでも早くここから逃げなければ。」と思い、6歳の子どもだった私は、5歳の弟を連れて逃げました。どこへ向かうともなく走り続けましたが、夕方4時になって、祖父と出会うことができました。置き去りにしてしまった5ヶ月の弟を見てきてほしいと伝えました。1時間後帰ってきた祖父から、その弟は、ついに死んでしまったことを聞かされました。 満月の夜でした。傷だらけのわたしは、シャツも着れず、裸のまま寝ました。薬はありませんでした。 7人いたわたしの家族は、2人になりました。しかしあのとき気を失ったわたしは、父がどうやって殺されたのかを知りません。そして、300人の仲間がどうやって殺されたかも。あのとき聞こえた泣き声だけを覚えています。 その後、鄭来さんは 山の中で暮らされました。その間に、唯一の肉親であった弟は、鄭来さんの知らないうちに知り合いに引き取られました。 この事件(1942年3月15日)は、日本兵がシンガポールを陥落させた(同年2月15日)後に起こされました。「どうして、わたしたちの仲間は殺されなくてはならなかったのか。」と鄭来さんは、話しました。 日本では、原子爆弾により多くの命が奪われました。「戦争の被害を受けたのは、(日本もマレーシアも)民衆でした。」鄭来さんはそうとも、話されました。「だから、わたしたちも、日本のみなさんも同じ平和を求めているはずですね。」と。しかし・・・。 鄭来さんは、以前、来日されたことがあります。そのとき、こんなことばをかけられたそうです。「日本はアジアを侵略し、多くの人々を虐殺しました。しかし、そのため、原爆を落とされ多くの人々が殺されました。だから、それでチャラですね。」と。本当に、それでチャラなのでしょうか。 「マレーシアは、どこも攻めなかった。原爆を落としたのはアメリカであり、マレーシアではない。」 事実を正しく認識していない、無責任で自分勝手な発言に、鄭来さんは大きな声で、そう返されたそうです。 今を生きるわたしたちには、何ができるのでしょう。被害者の立場に立ちきること。事実を知ること。事実を素直に受け止めること。その事実を、少しでも多くの日本人に伝えていくこと。過去を教訓として、現在と未来を考えること。 「あの戦争は侵略戦争ではなかった。」「日本兵は、虐殺などしていない。」「もう、すんでしまった過去のことだ。」そんな意見を述べて、未だに苦しんでいる人々をさらに傷つけて、どんな未来が築けるのだろう。人を傷つけてまで、自分を正当化させる。なんてかっこわるい生き方なのでしょうか。 わたしたち日本人が、被害者の立場に立って、謝罪と補償ができなければ、そして、そこから未来(平和な社会)を考えられなければ、鄭来さんの戦争は終わらない。 「マレーシアの平均寿命は70歳です。わたしは、今65歳。あと5年という短い間だけど、わたしは、この事実をより多くの人に伝えるため、ずっと話し続けます。」鄭来さんは、そう語って話を終えられました。 |