清田塾の歴史 (入野郷土誌 平成17年3月編集 P136〜P154を参照)
教師 | 西暦年 | 内容 |
清田元吉 |
1811 | 入野村打森谷に生れる。黄裳(おうしょう)(号) (半痴の長男 播磨加古川藩の浪人の出身)) |
1827 | 九州遊学 1830年まで | |
1830 | 清田塾開講(大多和春庵宅にて(有田) | |
1834 | 清田塾増築(打森へ)入野村庄屋の堀内安治が資金を出して塾舎2棟、建坪40坪を再建(2階建て、 2階は8畳2間、階下は、8畳1間、6畳3間) |
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1835 | 堀内哲之助入門 (1848年に割庄屋となり、清田塾を支援する。20歳) |
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1838 | 池田徳太郎入門(8〜11歳) | |
1840 | 富田謙四郎入門 | |
1849 | 9月 元吉39歳で死去 | |
池田徳太郎 | 1831 | 忠海に生れる(医者 池田元琳の長男) |
1833 | 篠崎小竹入塾 | |
1838 | 母死去 清田塾入門(8〜11歳) |
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1843 | 常藤頼母に進学 | |
1846 | 咸宜園(かんぎえん)に入塾「広瀬淡窓の塾」 | |
1849 | 4月 清田塾再入門 | |
1850 | 清田塾の運営 元吉の母の世話をする。 | |
1852 | 清田塾を退塾 | |
1854 | 江戸に行き 林家入門(尊王攘夷の思想の影響を受ける) | |
1868 | 明治元年 軍務官権判事(北陸三隊副参謀)に就任 | |
1862 | 明治2年 青森県権応事(現在の県知事に当たる) | |
1871 | 明治4年 新潟県権令(現在の県知事に当たる) | |
1872 | 明治5年 島根県権令(現在の県知事に当たる) | |
1873 | 明治6年 岩手県権令(現在の県知事に当たる) | |
1874 | 明治7年 青森県権令(現在の県知事に当たる) | |
死去 44歳 | ||
末田重邨 | 1822 | 現在の可部町大字大毛寺に生れる(父 両延八幡祠官 泰船) |
1833 | 吉田春帆入門(12歳) | |
1838 | 筑前亀井塾 | |
1839 | 遊学 | |
1840 | 帰郷(19歳) | |
1846 | 咸宜園(かんぎえん)に入塾(25歳) | |
1849 | 清田塾に来る。就任(28歳) | |
1857 | 船越 衛(ふなこしまもる)入塾(後に、千葉、石川、宮城の各県知事になる。勅撰貴族院議員を経て枢密院顧問官を歴任した。) | |
1859 | 入野を引き上げ、可部町大字大毛寺に帰る。父 両延八幡祠官の後を継承するため(1857年2月父が亡くなる) | |
可部町大字大毛寺で三亦舎(さんえきしゃ)を開設。 | ||
1862 | 三亦舎(さんえきしゃ)を廃塾にする。 6月 重邨亡くなる。 | |
創立年代 | 天保元年(1830年)〜安政6年(1859年)(29年間) |
所在地 | 豊田郡入野村 |
教科科目 | 漢学詩文 |
生徒数 | 男子 380名 女子 20名 合計400名 |
創立者教師 | 清田元吉(せいだ もときち)黄裳(おうしょう)(号) (1830年〜1849年)(19年間) |
教師 | 池田徳太郎 快堂(かいどう)(号) (1849年〜1852年)(3年間) |
教師 | 末田直馬(すえだなおま)(重邨)(じゅうそん) (1849年〜1859年)(10年間) |