電話口で口をついたように「お母さんのウサギだから」って言った。
その後の母の息を飲む様な音を聞くまで それを疑ったこともなかった。
私にとってはチャメの存在がでかすぎで、あのときの様な深い関係を築けないチャオは
「私たちの」ウサギではあっても「私の」ウサギではないと思っていた。
10年間、私はきっと母がウサギなしには寂しいから飼ったのだろうと思っていて、だから驚いた。
私にはすごく頑固なところがあり、
動物であれ物事であれ自分で選んだものでないと執着できないことがよくある。
だからかチャメとチャオに向く感情の種類は大きく異なった。
けれど、お母さんはもともと私を悲しませないために
「代わりのチャメ」を飼い続けてくれたのかもしれない、と、母の想いに初めて近付き、
それでなお、今もやっぱりチャオは母のウサギだったと感じる。
チャオ、お母さんとずっといてくれてありがとう。
いつからかその身勝手さも都合よく愛想を振るところも、
私たち「子供」の代わりだったのかもしれない。
そして子供より愛らしく…。
お母さんが電話口で「チャオちゃんがね、」と言う。
すると私はどこか安心して耳を傾ける。
それがウサギであっても人であっても、
誰かを心配したり自慢したり 暖かく想っているとき、
そこにはプラスのエネルギーが産まれているように思うから。
だからチャオちゃんありがとう。
ホントは私もゆっくり抱いて泣く時間が欲しかったよ。
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