〜 ハムスター、死との対峙、帰る場所 〜
自分の手の中に「死」というものを迎え入れたのは これが初めてだった。小学校のウサギ小屋でハダカで死んでる赤ん坊ウサギを見たことはあった。交通事故の動物も車の中から見たことがある。小学校でもらった金魚は白い斑点ができて数日の看病の末、死なせてしまったけれど、それも薬を溶かした洗面器の中、水の向こうでの出来事だった。
心のどこかで「生かせる」という根拠のない希望があった。
息を吹きかえしたかのごとく彼は目を開き、頭をもたげたのに、その口からは悲鳴のような音が漏れだす。チューチューとニャーニャーの間のような、キャーキャーと赤子のように。初めて聞く声で鳴く。でもその伝えたい言葉を私は理解できない。声が、息づかいが 死をつきつけてくる。「生きるんだよっ」声に出して訴えながらも、既に脳が感じとっている小さな死。
声が強くなり、小さくなり、息を詰まらせ、突然に訪れた“そのとき”。体をびくんと突っ張って、目が頭から飛び出して本当にとれるかと思った。手足が同時に脱臼しそうなほど伸びきり、――弛緩。彼の姿は見事なまでに死を享けいれているのに、なぜまだ震え、心臓が鳴っているの?
死への恐怖。
獣医への進学を決める前に、死の瞬間を目撃していたならば、獣医への夢なんて持ち得なかったかもしれない。それはただの恐怖。そして、二度と目にしないですむように今すぐにでも死んでしまいたいと思うほどの悪夢。
動物の死の体験は獣医などという夢とは直結しない、すごく離れたところにあるんだ、とそのとき感じた。
今この手の中で静かに眠るチュッチュ。
チュッチュは最近、しょっちゅう口いっぱいに餌をためて脱走を試みていた。昔は脱走する時に餌なんて持ってかなかったのに。自然と冬ごもりの準備を始めてたの?ハムスターが冬ごもりに入ってしまう飼育環境ではダメなのに。ごめんね。むしろ家のどこかで冬ごもりさせてあげた方がよかったの?
知り合いの先輩のハムスターが冬を越せずに死んだと聞いても、チュッチュだけは決して死ぬことはないと心のどこかで思っていた。2歳の冬。チュッチュは白内障になっていたけれど、これは老人病だからそんなに重い病気じゃないんだよ、って今日 調べてきたところだったのに。それも教えてあげられなかったね。ごめんね。
私はロマンチストではないから、君を公園に埋めない。イヌに掘り返されたりするよりは、実験動物用の冷蔵庫に連れていくね。自分でゴミに出せるほどタフでもないから。
けど、本当は君の木を植えたい。ごめんね、寒くて。
その冬の一つの経験は私を少し大人にした。最期のときを迎える子を抱きながら「どうすればいいの?」と泣きたくないから、獣医になりたいのかもしれない。死んでいくのが分かっていながら、尽くすべき『最善』を持たないことこそ、きっと自分の中の本当の恐怖なんだ――。
揺れる電車の窓越しに緑が増えていくのを感じながら、一週間の実習の疲れと興奮と、そこで得た安らぎに身をゆだねる。友達が親友になった。自分の過去を下り、自分を前より少し好きになった。これから向き合うべき未来をちゃんと踏みしめて進もう。早く、イヌに会って、抱きしめたい。
電車を降りて、家に向かう足どりは軽い。紫になりはじめた空のした、ポツポツと所々に門灯がともっている。
はす向かいのおばさんが小さなヨーキーの散歩から帰ってきたところだった。
「あら、ともちゃん久しぶり。ちょっと会わない間にお姉さんらしくなったんじゃない?昔は自分のこと『とも君、とも君』って言ってたのにねぇ」
笑顔で会釈だけ帰すと、ともは玄関を開けず庭にまわった。
「ただいま、コガネ!!」
鼻先の少し白くなった黄金色のイヌが、彼女の帰りを知っていたかのように立ち上がり、しっぽを振っていた。そして、また久しぶりに二人の目が合った。

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